昭和44年04月02日 朝の御理解



  御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 世間にはこう言う例が沢山御座いますよね。いかにも幸せそうに見えておっても、そのどれかがかげておる。病気であったり後継ぎがなかったり、それはどう言う事が原因かと言うと、神のおかげを知らぬからとあります。神のおかげを知ると言う事は神の大恩を知ればとこうあります。神の大恩を知ると言う事、神のおかげを知らぬから、互い違いになって来ると、大抵神様のおかげも神様の大恩も、所謂天地の御恩徳も分っておる様だけれども、分っていない証拠に互い違いになって行く。
 ここん所を極めて行くと、信心も限りないひとつの楽しみと言うかね、と言った様な物を感得して行く事が出来ると思う。そりゃなる程右と願って左になる、左と願って右、右左とこう願い通りにならないと言う事も、神様のおかげである。神様のおかげであると言う事が分るから、恩と言う事が神様のおかげと解るから所謂大恩とですね恩と言う事が分る。神様のおかげを知らんから互い違いになって来る。 
 互い違いになって来る事も神様のおかげと分かる。この辺が大変難しいとこですね、だから本当言うとです互い違いになって来る事は無い事です。そりゃ互い違いなって来る其の事もおかげなんだけれども、そりゃ何故おかげかと言うと。本当の事を分らせて下さろうとする事が分るからおかげなんです。その事自体おかげじゃない、ですからあたくし共の場合はまあ、殆んどが互い違いになっておる訳です。
 ところがここにひとつ有難いなと思うのはね、その互い違いになっておっても、神様が本当にこの様な働きを下さっておると言う事がね、この実感して分る様に神様がお繰り合わせを下さる事ですね。先日も福岡の高橋さんのお届けを、もうその日はチョットおしめりでした、明日そのおときの方はですね、香椎花園にあちらの、お寿司を出しておられます。数はたいした事はないけど。
 先方から300ばかり出してくれと言う注文があっておりますけれども、お天気がこの様な調子です、どうさして頂こうかとこう言うことです。そりゃ向こうの言うことに答えられたらいいだろうと、それで作らせて頂きますからと、それで作らせて貰いますと言うて、作られたなるほど、お天気は良かったところが非常に寒かったんですね、45日前の話しなんですよ。
 ですけどなんとそれだけの寿司を出したのに対してですね売れたのは七つじゃったそうです、互い違いになっておると言う事がです、神様はもう例え損をさせるとか、互い違いになると言った様な事はね、問題じゃあんなさらんと言う風にまあ思いますけども、実は問題なんです、神様なんで好きや好んでそうさせたりその折角働き損のくたびれ儲けの様な事をさせなさる筈がないじゃない。
 それを歓びなさいと言う親であったり神様であったりしたら、こりゃ可笑しい。けれどもね、神のおかげを知らんからと、本当の意味での神のおかげを知らんから、神のおかげを分からせて下さろうとする演出とでも申しましょうか、いや神様ある意味合いに置いては涙を飲んでそう言う所を通らせて下さる。どうもその面白くないですよね、明くる朝参って来てそう言われる。
 きのうこうこうでしたと、けれどもそのその事はたがい違いであり、なんとお天気は良かったけれども、実際の人出は少なくて売れなくて、しかもその売れたか売れんか、まるっきり売れなかったと同然の様にです、そのたった七つしか売れなかったと、けれどもその寿司を又後でさばく時、またお店の上に起きて来るさまざまなその事柄をジィット思うて見るとです。
 又是は互い違い所じゃない神様の演出と、ハッキリ分からせて頂く様な、おかげを感じる一日で御座いましたと言うのである。ですからまあまあ、その神様のこう言う間違いのない働きの中に、この事が損なら損になると言った様な事が、起こって来ておるんだと言う事をおぼろげに分かる、その事自体はどうも有難く頂けないとこう言うのである。けれどもその一日起きて来た事をジット思うて見るとです、
 神様のおかげちゃ間違いないなと思う様な事、その事ではなくて、他の事で間違いなさって言うものを感じさせられる。こりゃ皆さんもそれを随分、随分って言うかここの人は皆んなの人が、そこんとこの体験を持っておられる事だろうと思う。自分の願いと言うものは成就していない、むしろ反対になって行きよる。けどもこんなにも間違いのない働きと言うものをです、頂いておる事願いもしない、他の事柄でそれを感じるとらせて頂けるような働きが周囲にある。ね、
 ですからその事自体は喜べないけれども、そこんところが人間凡夫で相分かりません、どこにお粗末御無礼があるやら分からん、神様がいうならば、もうけさせて下さろうとしておられるんだけども、私の不徳の為に却って損になりましたと、そこに、お礼は言えないにしましても、ね、たたかれて痛いのですから、何百と言うそれを作って、それが思う様にならんのですから、
 その事自体はです、お礼を言う気持ちにもならない、と思っておっても、矢張りたたかれれば痛いのである。けれども、その周囲に、神様の働きと思わずにおれないほどの、おかげを見せて下さるから、人間なまみで分かりません、何処にお粗末やら、ご無礼があるやも分かりません、お礼は言われんけれども私しは、お詫びの出来る信心は、出きなければいけんと思う。
 それが本当にお礼になり、お詫びになり出来る信心がでけた、所に初めて私はおかげを知ったと、言う事になるんじゃなかろうかとこう思う。神様の本当のおかげと言うものは知っておる、分かった、神様の働きは十分にわからせて頂いた。そこにお詫びが言え、又はもっと進んでその事に対してでも、お礼が言えれるそこにあたしはおかげが分かったから、分かるからお詫びが言えるのであり。
 おかげが分かるから御礼が言えるので御座います。そうですもんね。そこでそう言う様な互い違いの事が、段々言うなら見事におかげ頂きましたと、見事に当たりましたと、例えば言う様にね、そう言う神様の間違いのない働きを受けて行く事もあり、ある時には又それとは反対に損から損になって行く様な事もある。それがね続くんですよ、なら高橋さん達の場合なんかもうズ‐ット続いているんですね。
 おかげ頂いとる、おかげ頂いとると言いよるけども、そう言う互い違いの事ももう何年続くやら分からんのだ。それでも私先日奥さんから聞かせて頂いたんですけども、こりゃあの佐田さんの事ですけれども、もうおかげ頂いたおかげ頂いたと言いますから、あたしゃもう本当ズットおかげ頂きよったち思いよりましたら、主人が三年も経ってから申しますのに、もう実を言うたらこう言う不思議な事が起こっておると、自分の店には、と言うのはですね。
 乾物屋さんですから缶詰の仕入れをする時に、もうミカンの缶詰に限っては何時の時でも損だったとこう言うんです。お願いをして買い、お届けをして買い、お取次ぎを頂いて買うておるにも関わらず、三年間だぁれにも言わなかった。奥さん達ははあもうおかげ頂いたおかげ頂いたち言うて帰って見えるから、おかげ頂いておられるもんと、思うておったら先生三年間続けてそのミカンの缶詰の事だけには、大損であったとこう言う、先生がこれを買えと仰るからこれ買う。
 はあ今度買えと仰るから買う。それで買えば損、またはそれを買えち言わっしゃるから、買やそれが損になるような結果になって来る。所がここに不思議で不思議で堪らん事はね、それが必ずどの場合でもミカンであると言う事にです、有難いものを感ずると言う意味の事を三年経って今度それをまあ話されたと言うのです。まあ内の主人がえらいと言う事を感じましたとこう言う訳です。おなごの私達はもう一喜一憂自分の思いになりゃおかげ、おもう様にならんといやもうおかげでない様に思うとるけれども、ここが内の主人のえらい所と思いますと言うてその言われる。
 漸く立ち直って最近そこん所のおかげが頂ける様になったと言うお話しを聞かせて貰うてですね、神様の演出の素晴らしい事にまあ驚くばかりで御座います。ですからその間のねその辛抱と言うよりもその間に本当に御神意を分からせて貰う。そこん所に例えば不思議に思う事はと言われるそのそれがミカンの事に限ってはと言うのである。ミカンと言やぁもう合楽の信心と言われる。こりゃこの事を持って信心を鍛えて下さるんだ、分からして下さるんだとまあ佐田恭造さんは思われたんですね。
 ですから誰にもその事はお願いして断って又損したとは、いっつも言われなかったとこう言うのである。そこにですね、そう言う事の繰り返しがあっておる内に、そう言う事が、損するその事はおかげじゃないよ、けどその事を通して分からせられる事がおかげなのだ。そのおかげを知らぬからと、そのおかげが分かればね、勿論大恩が分かって来る。大恩が分かれば無事達者で、子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来ると仰せられる。
 そう言う代勝りとか、子孫が続くとか、身代も出来と言った様な、おかげを本当に頂かして下さる為に、ここんところどうでも、お互い私共が解らねばならんとこです。神のおかげを知らんからと、それも一辺二辺じゃない、繰り返し繰り返し解らして頂く内にです、どうもスッキリしません、高橋さんの言葉を借りるなら、損した事だけにはどうもどうもスッキリしない。
 けれども一日の事を思うて見るとです、神様のお働きと言うものをヒシヒシと感じる事柄が続いておる、もうそれこそタイミングの良い事待っとりました。と言った様な素晴らしいタイミングも其の事以外には頂いておる。だからこの事損した事もです、損したって言うかそれも又後で出てしまっておりますから、損と云う事もないでしょうけれども言わば働き損のくたびれ儲け的な事が残っておる。
 だからその事には、有難いとは思えないスッキリしないどうも、本当に神様神様と言う気持ちが、何処にか残るけど、その一日の事を思うて見ると、はぁあれも神様の働きであった、是も神様の演出であったと、思われる様な事を感じられるから、まあまあ辛抱が出来ると言うのである。だからまあまあ、辛抱がでけると言う事だけではいけない。教祖の場合でも同じ事、それがミカンに限られておる所にです、神様の演出を感じん訳にはいかんじゃないかと。是は神様がこのミカンの缶詰ね、
 ミカンの信心と言うものを神様が求め給うものておる事を、解らして貰うて感じさせて貰うて、三年間その事を心に練り続けて来たとこう言うのである。ですから中々やっぱ信心も辛抱強うなければなりませんね。自分の思うごつなるごとばっかりがおかげんごと思うとったってん信心はできやしません。けどそこを通らなければ最後の所。自分一代じゃない、子孫も続き一年勝り身代も出ける、
 代勝りのおかげを受けさせて貰う、健康にもなれるしかもそれがです、親から子から孫と言う様に、続けて頂けて行く様な、いよいよ子孫繁盛の、基を取らせて頂くのですから、そこんところのやっぱ稽古をしなければいけない事が分ります。しかもまあ高橋さんの場合でも、佐田さんの場合でもです、楽しゅうとまではいっとらんけれども、神様のおかげをそこに、感じさせて頂きながらですから、まあある意味合いで、楽しゅうそこんところを、受けておいでておられると言う事を感じます。
 その証拠には日々この様にして信心が続けられております。私の修行中の時分には神様からいつも、みすを奉れみすを奉れと言う事を頂いた。お道をけがす信心を汚す心配をさす、私がもう一生懸命の信心をさせて頂いていた時、もうそれだけ例えば仕事に打ち込んだなら、大抵お金は儲かるだろうと思われる様に、その信心の方へ打ち込む、ですから皆んなが心配してくれる。
 先日参りました福岡の友人なんかは、ほんとに20年前にあんたを捕まえて、私がすにゃあんたに説教したもんのち、言うてから話される。大坪君あんたは本当に商売は子供ん時から言わば上手じゃったと、そのあんたが商売やめっしもちてから、あんた金光様金光様ばっかし言うちから、そげな風でどうするのと、止めれとは言わんけん兎に角商売の方本気でやらんのち、言うて自分があんたに言うた事あったけど、あんたが笑うてそれをうてあわじゃった。
 なる程こげな事になって来るもんじゃから、まあ言うならばこう言うおかげに成って来るもんだからあたし達信心のないもんじゃ分らなかったけれども、と言うてその言うて下さる様にです友達ですら心配してくれる、それがまして肉親の兄弟やら親やらの心配は勿論大変な心配であった。あのまま行きよるがあれが大丈夫だろうか、と。あたしの母はそん時にある心配の余りに何て言うんですかね、
 お不動様にもうあのとうにんさんに一遍その事を尋ねたそしたら不動様が言いなすった。大坪さん心配しなさいますなズーットね灯明がねもうズーット灯りが点いておる所を頂くけん、必ずああたんとこの息子さんはおかげ頂きなさるばいち言うて、その言われたけれどもまあ安心したりしなかったりでしょうけれども。それでも心配じゃった心配をさる、だからそう言う人に心配をさす事をまず。
 奉まつらないけん御供えしなきゃいけん、お道を汚す、その為にはお道の信心金光様の信心すりゃあげん貧乏せなならんじゃろうかと、言うぐらいに貧乏させて頂いた。金光様の信心すりゃ、あげん貧乏せなならんじゃろうかと言うぐらいにお道を汚す。信心を汚す、その為にはどうしても自分の心を汚すのです。こうやっておかげ頂いて見るとなる程なる程と合点が行く事ばっかりですけれども、その時はそうじゃなかった。
 もう椛目で人がどんどん助かる様になって、一年ぐらいした時。ある方がおかげ頂いて御簾の御供え、今椛目にかかっておる御簾がそうです。御簾の御供えそん時に丁度その月に、私がおうておった借金が奇麗に済んだ時であった。お道を汚しておった訳ですね、金光様の信心をするともう本当金借って払いもせんと、人から言われた時代なんです。けれども私しの借金払いが済んだ月にでしたよ。
 あの御簾の御供えが来たのは今椛目に下がっているのがそれです。言うならばです借金払いも出来た、親達に心配させよったのもやれやれと安心をさせる事が出来た。勿論おかげで心汚す様な事も無くなった初めて御簾が奉られたのです。皆さんその御簾を奉つらないけんのです。御簾と言うものは、こりゃずっとこう、ききろくが?使われますね、こうやって右・左・右・左なって行く訳です。反対になって行く訳です。
 けれどもその反対反対所謂ここで言うならば、互い違いになって行く訳です。但しその互い違いにも、もう根限りのまた互い違い、あれ程信心するのにと言われるぐらいに信心しても互い違いになって行った。所がその段々所謂、周辺に感じる所の神様の働きを思うとです、もうそんな事は問題じゃない、もう相すみませんどこじゃなくて、もうそれが有難うして堪えんごとなる。 
 互い違いになって行きよる事が、そうして行く内に御簾が言わば編み上げられた、作り上げられた。御簾の御供えが来た時には、私しの御簾も奉つられてあったと言う事なんです。そこに私しは神のおかげが神のおかげを漸く知った、神の大恩をわからして頂いた。そこから今日のおかげである。ここに例えば家柄一筋となってと、段々そう言うおかげを頂いてまいりますと、家柄一筋となってのおかげになって来る。
 ここに私共の長女の結婚なんかでもそうであります。どんなに考えたっちゃ椛目の大坪さん、と言う時代はです金光様の信心させて頂く者が、例えば金光家と縁が結ばれるてんなんてんち言うのは、どげん考えても考えられない事、段々おかげを頂いて家柄一筋となって行きよるんですね。それには先ずその互い違いの中にです、神のおかげを知り、おかげが分らせて頂く所から神の大恩が分り。
 所謂神恩報謝その大恩に対しまつって、神恩に対しまつって報謝、それに報いる所の生活が段々出ける様になる所から、一年勝り代勝りのおかげが受けられる様になって来ると、私は思います。そこで皆さんがここで、互い違いをお互いイヤなんだけれども、互い違いになって来る時には、先ず知らなければならん事は、まだまだ自分は神のおかげを知っておらんのだと、まず悟らないかんと思うね。
 だからもっともっと神のおかげを分らして貰い、神の大恩を分らして貰わなければならんと言う、その事は決して有難い事じゃないどうもすっきりしないのが本当なんだ。けれどもそこがスッキリとですお詫びになり御礼になり、この様にして神様のおかげをわからして下さると言う信心にならせて頂く時です。その言わば御簾を奉れる様になると言う、先日から高橋さんが言われる、所謂金は残らんと言うのである。まあ言うなら是程信心するのに金が残らんと言うのである。
 あれだけの大きな、言わば屋台骨を背負って、しかし商売には、どちらかと言うと向かない方なんですよね、只神様が寿司屋が良いと、おっしゃるから寿司屋になられただけの事であって、そりゃお父さんやらお母さんから見たら、まだ赤子の手を捻る事ある様な感じらしいんです。お母さんが来て言われるまだまだ育ち(?)でけんと、それでももう自分達隠居しておられますから、あの人に任せてあるけど、まあ危なかしくて見ちゃおれんと言う訳なんです。
 だから一時でも早うもうお父さんお母さん、このくらいづつ残っていきよるよと、言うてやれたら親も安心するし喜ぶんだと、けれどもお金が残らんとで私しが申しました。高橋さん私し申しました、まだまだあんたどんが今どん金残すなら、おおごつばいち私し申しました。誰かの例を取って私が話しました、そのガツガツの中にです互い違いなら互い違いがあって、言わばガツガツの中にそれでも、神様がこの様な働きをして下さると言う事が有難いと言うこつば、まちっとまちっと、本当分からなければでけん。
 と私、高橋さん今あんた金どん残すならおおごつばいと私がね、今そのガツガツながらもおかげを頂いておると言う事を、神のはたらきを十分に分らして貰い神のおかげを分らして貰う時なのだから、そこん所をいっちょよう分らないけんよと言うてお話しをした事です。皆さんでも早う一躍千金の夢見る人もあろう、信心がなかっても儲け出しよるもんもあろう、けれどもそう言う事には目もくれずにです。
 心の中に頂いていきよる信心が有難いと分らして貰うて、この様にも間違いのない働きの、神様の分った時、おかげが分った時、大恩が分った時、何時の間に貯まったじゃろかち言うごたる。例えばお金ならお金で言うならばおかげが貯まるから、ほんなこつですよ、何時の間に貯まったか分からんごたる、お金でなければほんな貯まったじゃなか、そう言うおかげを頂かして頂く為に、ひとつお互いの互い違いのところをです、互い違いになって行くところに、神様のおかげが感じられんごたっときに、こりゃいよいよ可笑しい時ですけんいけません。
 けども互い違いになりよるけれども、ここにはこんなに神様の働きを頂いておると言う事を、感じさせて頂ける信心を頂いて、神のおかげをおかげと分らして貰うて、神の大恩に応えまつれれる神恩報謝の心と言うものがいよいよ強うなって行く。いよいよ子孫繁盛家繁盛、しかもそれが三代続いたらと仰せられるんですから、それが三代続けばそれがひとつの家柄一筋となって徳になるのである。そう言う徳を身にも家にも受けてさして貰うて、おかげを受けなければそれは本当なものじゃない、揺るぎのないおかげとはそう言うようなおかげの事を言うと思います。
   どうぞ。